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2011年6月20日月曜日

【今週の礼拝】土台のある建物

【ルカによる福音書 第6章46節~49節】
わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。

イエスの言葉を、「よい」「すばらしい」と聞きに来る人はたくさんいるが、その言葉の通りに実行する人は少ないということが、土台の話にたとえられている。イエスの言葉を実行する人は土台を築いてから家を建てる人、実行しない人は土台なしに家を建てる人である。

農園の農機具を収める小屋を建てたことがある。初めの年、土台なしで建てた小屋は、冬が明けたとき雪でつぶれた無残な姿になっていた。翌年は、簡単な土台として、四つ端に石を置いて、その上に小屋を建てた。春になると、やはり、雪の重みでひしゃげていたが、昨年のそれよりはまだましだった。そんな経験をしたことがある。

普段は土台がある小屋もない小屋も、何の違いもみられない。しかし、「何か」があったときに、違いが出てくるものなのである。洪水、台風、風雪、時として、しかし、必ず訪れる「何か」があったときに。

生きていくこととどこか似ている。北星余市での高校生活においても、近い将来みんなが出ていく社会においても、いつも温かく迎えられているわけではない。時には厳しい場面に出くわすことが、必ずある。

人生において、しっかりした土台のある人は、揺れたりすることはあっても、つぶれたりすることはない。

この北星余市での生活において、それぞれの土台を築いて、社会に出ていってほしい。北星余市で築いた土台の上に、社会で出くわす様々なものを積み上げていく、そうして自分を創り上げていってほしいと思うのである。

土台は、決して、画一的なものではない。共通する基本的な部分はあるが、しかし、一番良いのはその土地に合わせた土台を築くことである。それが、また、個性の土台にもつながるのである。 このエントリーをはてなブックマークに追加

2011年6月6日月曜日

【今週の礼拝】一人、そして、集団。

【コリントの信徒への手紙 第12章26節~27節】
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。

今日、原案が下りてきた強歩遠足。これは考えてみれば馬鹿げた距離を歩く行事である。

30キロ、50キロ、70キロ。
それぞれの体力に合わせて、テクテクテクテクひたすら歩く。
車社会の現代において、こんな距離を歩くことは、まずない。

ゴールに掲げるクラス旗、「ごはんまでもう少し!」「つらいけどがんばろう!」などのメッセージを載せ沿道に掲げるのぼり、途中ゴミを手に持ち歩く必要がないように、またポイ捨てをしないようにとつくるゴミ箱。これらを土曜日までの間に、各クラス、コツコツと創り上げ、少しずつ気持ちを高めていく。

本校は集団を大切にしている学校だということはみんなも知っていると思う。作られたクラス旗はこの強歩遠足だけでなく、クラスによってはスポーツ大会や学園祭などにも使われ、クラスのシンボルとなったりもする。

こういった共同の作業をしながら、クラスや集団というものを意識していく。そうして「みんなで完歩しようね!」と約束が交わされる。

しかし、実際は一人で歩くのである。よーい、どん!で歩き始める。最初はかたまりになっている行列も、時間とともに縦に長くなっていく。「友達同士で歩こうね」と歩き始めても、(もちろん、約束通りに歩ききる人もいるが)距離と時間とともに別の友達とくっついたり、離れたり、一人になったり。30キロ、50キロ、70キロ、自分で選んだ距離を、ただひたすらに自分の足で歩くのである。

その間、何を考えているのか。

一人ぼっちだと思うときもある。70キロを歩いていると、なんで、こんな距離を選んだのかと何度も思う。ふと振り返ると、後ろに、はぁはぁ歩いている知った顔がいる。一人で歩いているけれど、一人で歩いているわけではない。ときどき、そんな連帯感に心が支えられる。沿道や関門から「がんばれ!」とかけられる声が、「うざい」と感じるときもある。苦しみながら歩いている自分と比較して。そんな醜い自分を感じながら、それでも応援してくれる人たちの温かさを感じる。ゴールに近づくにつれ、待ってくれている、励ましてくれる友達がいる。一度ゴールしたのに、わざわざ戻ってきて、一緒に歩いてくれる友達もいる。そして、ゴールにはたくさんの「おつかれ!」「がんばったね!」の声とお互いをたたえあう笑顔があふれている。

集団を考えるにはよい機会となる。

集団というのは、そういう風にできあがるものなのである。一人ひとりが自分の足でしっかり立って、良質な集団というものができあがる。ただ人が集まって、たくさんの人がいるんだから、誰かがやってくれるでしょ?というのは、集団が陥りやすい弱点である。

こうして、強歩遠足は完成する。自分の達成、クラスでの達成、学校行事としての達成。北星余市高校の二大行事のひとつである。

これを契機に、7月にスポーツ大会、9月に学園祭と、クラスの絆を深めていくのである。 このエントリーをはてなブックマークに追加

2011年4月25日月曜日

【今週の全校礼拝】罪の奴隷か義の奴隷か。

毎年、北星余市に入学するにあたって、新しい生き方をしようと、大きな決断をしてやってくる生徒が多い。それまでの自らの行動を振り返り「これじゃだめだ」と思い立つ。そういう思いが子どもたちにとって、「やりなおし」という名の「新たな一歩」を踏み出す大きな原動力となる。北海道まで来て下宿生活をするという大きな決断を後ろから押したもの。それは新しい生き方がここにあるということだろう。

しかし、生き方を変えると言うのは、そうたやすいことではない。子どもといえど、十数年間生きてきた中で培ってきた価値観や考え方は、一人ひとりに根付いている。人間は常に選択をして生きている。朝起きてから夜寝るまで、大小様々な決断をしている。その決断のもとになっているのが、生きる中で培ってきた価値基準である。

ここ北星余市で様々な人に触れ、様々な価値基準を吸収してほしい。教師、下宿の管理人さん、友達の親、自分の親、たくさんの大人から。かつて後悔するような出来事を経験し、北星余市ですでに希望の光を見出しつつある先輩から、未だ過去の価値基準をもち失敗も多い新しく入って来た新入生から。いいことばかりを吸収するのではない、「これはだめだ」ということを知るのも大切なことである。

ただ、それにあたって、私たちは二つの価値基準を同時にもって生きていくことはできないことを理解しておく必要がある。「失敗した」というときには、誤った判断をしたときが多い。突き詰めて考えたとき、その判断は誤った価値基準によるものが多い。「失敗のもととなる価値基準に照らし合わせながら物事を判断し選択し行動しながら、失敗をしない自分になる」ということはできないのである。

ここで新しい生き方を身につけたいというのなら、それは新しい価値基準を学ぶことである。

罪の奴隷になるか、義の奴隷になるか。

入学して2週間。人は時間の経過とともに、日常にまぎれる中で、当初の思いが薄れるものである。それが普通だ。ただ、いま、ここ北星余市にいるみんなは、間違いなく大きな決断をした過去がある。その過去を今一度、自分の胸に聞いてみてほしい。


【新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章12節~18節】
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義の為の道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは立法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
では、どうなのか。わたしたちは、立法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、いまは伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
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