【ルカによる福音書 第6章46節~49節】
わたしを「主よ、主よ」と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。
イエスの言葉を、「よい」「すばらしい」と聞きに来る人はたくさんいるが、その言葉の通りに実行する人は少ないということが、土台の話にたとえられている。イエスの言葉を実行する人は土台を築いてから家を建てる人、実行しない人は土台なしに家を建てる人である。
農園の農機具を収める小屋を建てたことがある。初めの年、土台なしで建てた小屋は、冬が明けたとき雪でつぶれた無残な姿になっていた。翌年は、簡単な土台として、四つ端に石を置いて、その上に小屋を建てた。春になると、やはり、雪の重みでひしゃげていたが、昨年のそれよりはまだましだった。そんな経験をしたことがある。
普段は土台がある小屋もない小屋も、何の違いもみられない。しかし、「何か」があったときに、違いが出てくるものなのである。洪水、台風、風雪、時として、しかし、必ず訪れる「何か」があったときに。
生きていくこととどこか似ている。北星余市での高校生活においても、近い将来みんなが出ていく社会においても、いつも温かく迎えられているわけではない。時には厳しい場面に出くわすことが、必ずある。
人生において、しっかりした土台のある人は、揺れたりすることはあっても、つぶれたりすることはない。
この北星余市での生活において、それぞれの土台を築いて、社会に出ていってほしい。北星余市で築いた土台の上に、社会で出くわす様々なものを積み上げていく、そうして自分を創り上げていってほしいと思うのである。
土台は、決して、画一的なものではない。共通する基本的な部分はあるが、しかし、一番良いのはその土地に合わせた土台を築くことである。それが、また、個性の土台にもつながるのである。 Tweet