毎年、北星余市に入学するにあたって、新しい生き方をしようと、大きな決断をしてやってくる生徒が多い。それまでの自らの行動を振り返り「これじゃだめだ」と思い立つ。そういう思いが子どもたちにとって、「やりなおし」という名の「新たな一歩」を踏み出す大きな原動力となる。北海道まで来て下宿生活をするという大きな決断を後ろから押したもの。それは新しい生き方がここにあるということだろう。
しかし、生き方を変えると言うのは、そうたやすいことではない。子どもといえど、十数年間生きてきた中で培ってきた価値観や考え方は、一人ひとりに根付いている。人間は常に選択をして生きている。朝起きてから夜寝るまで、大小様々な決断をしている。その決断のもとになっているのが、生きる中で培ってきた価値基準である。
ここ北星余市で様々な人に触れ、様々な価値基準を吸収してほしい。教師、下宿の管理人さん、友達の親、自分の親、たくさんの大人から。かつて後悔するような出来事を経験し、北星余市ですでに希望の光を見出しつつある先輩から、未だ過去の価値基準をもち失敗も多い新しく入って来た新入生から。いいことばかりを吸収するのではない、「これはだめだ」ということを知るのも大切なことである。
ただ、それにあたって、私たちは二つの価値基準を同時にもって生きていくことはできないことを理解しておく必要がある。「失敗した」というときには、誤った判断をしたときが多い。突き詰めて考えたとき、その判断は誤った価値基準によるものが多い。「失敗のもととなる価値基準に照らし合わせながら物事を判断し選択し行動しながら、失敗をしない自分になる」ということはできないのである。
ここで新しい生き方を身につけたいというのなら、それは新しい価値基準を学ぶことである。
罪の奴隷になるか、義の奴隷になるか。
入学して2週間。人は時間の経過とともに、日常にまぎれる中で、当初の思いが薄れるものである。それが普通だ。ただ、いま、ここ北星余市にいるみんなは、間違いなく大きな決断をした過去がある。その過去を今一度、自分の胸に聞いてみてほしい。
【新約聖書 ローマの信徒への手紙 6章12節~18節】
従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義の為の道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは立法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
では、どうなのか。わたしたちは、立法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、いまは伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。