【コリントの信徒への手紙 第12章26節~27節】
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。
今日、原案が下りてきた強歩遠足。これは考えてみれば馬鹿げた距離を歩く行事である。
30キロ、50キロ、70キロ。
それぞれの体力に合わせて、テクテクテクテクひたすら歩く。
車社会の現代において、こんな距離を歩くことは、まずない。
ゴールに掲げるクラス旗、「ごはんまでもう少し!」「つらいけどがんばろう!」などのメッセージを載せ沿道に掲げるのぼり、途中ゴミを手に持ち歩く必要がないように、またポイ捨てをしないようにとつくるゴミ箱。これらを土曜日までの間に、各クラス、コツコツと創り上げ、少しずつ気持ちを高めていく。
本校は集団を大切にしている学校だということはみんなも知っていると思う。作られたクラス旗はこの強歩遠足だけでなく、クラスによってはスポーツ大会や学園祭などにも使われ、クラスのシンボルとなったりもする。
こういった共同の作業をしながら、クラスや集団というものを意識していく。そうして「みんなで完歩しようね!」と約束が交わされる。
しかし、実際は一人で歩くのである。よーい、どん!で歩き始める。最初はかたまりになっている行列も、時間とともに縦に長くなっていく。「友達同士で歩こうね」と歩き始めても、(もちろん、約束通りに歩ききる人もいるが)距離と時間とともに別の友達とくっついたり、離れたり、一人になったり。30キロ、50キロ、70キロ、自分で選んだ距離を、ただひたすらに自分の足で歩くのである。
その間、何を考えているのか。
一人ぼっちだと思うときもある。70キロを歩いていると、なんで、こんな距離を選んだのかと何度も思う。ふと振り返ると、後ろに、はぁはぁ歩いている知った顔がいる。一人で歩いているけれど、一人で歩いているわけではない。ときどき、そんな連帯感に心が支えられる。沿道や関門から「がんばれ!」とかけられる声が、「うざい」と感じるときもある。苦しみながら歩いている自分と比較して。そんな醜い自分を感じながら、それでも応援してくれる人たちの温かさを感じる。ゴールに近づくにつれ、待ってくれている、励ましてくれる友達がいる。一度ゴールしたのに、わざわざ戻ってきて、一緒に歩いてくれる友達もいる。そして、ゴールにはたくさんの「おつかれ!」「がんばったね!」の声とお互いをたたえあう笑顔があふれている。
集団を考えるにはよい機会となる。
集団というのは、そういう風にできあがるものなのである。一人ひとりが自分の足でしっかり立って、良質な集団というものができあがる。ただ人が集まって、たくさんの人がいるんだから、誰かがやってくれるでしょ?というのは、集団が陥りやすい弱点である。
こうして、強歩遠足は完成する。自分の達成、クラスでの達成、学校行事としての達成。北星余市高校の二大行事のひとつである。
これを契機に、7月にスポーツ大会、9月に学園祭と、クラスの絆を深めていくのである。